坂本龍馬の嫁はどんな人?楢崎龍の人物像

坂本龍馬の嫁はどんな人?楢崎龍の人物像

江戸時代末期、薩長同盟を成し遂げ、江戸時代から明治時代へと転換する日本に大きく活躍した「坂本龍馬」。

坂本龍馬は結婚していたので、嫁がいたのですが、どんな人物なのかあまり知らない人も多い様子。

今回は坂本龍馬の嫁・楢崎龍について、調べたことをまとめました。

坂本龍馬の嫁・楢崎龍の育った家庭

坂本龍馬の嫁は「楢崎 龍(ならさき りょう)」という名前です。

時代劇ではよく「風呂からでたままの格好で、龍馬に危機を知らせた」というシーンが見かけられます。

また、「日本初の新婚旅行」と俗に言われる、坂本龍馬とお龍の旅行の部分が描かれます。

しかし、お龍自身の人生などは、あまり知られていないように思います。

お龍、楢崎龍は、1841年7月23日に生まれた女性で、坂本龍馬は1836年生まれなので、5歳年下ということになります。

楢崎龍は京都に生まれ、裕福な家庭で生け花、茶道、香道などを習いながら育ったということで、幼少期は苦労なく、環境的には恵まれて育ったようです。

楢崎龍の父親は楢崎将作(ならさきしょうさく)といって、青蓮院宮(中川宮)つまり天皇家の宮様の一人の侍医でした。

楢崎将作は勤王家で、自宅にも勤皇の志士たちを招いたり、宿泊させたりしていたようです。

お龍はそんな環境で毎日を過ごしていたということなので、もともとどちらかというと、佐幕派の人間よりも、勤皇・攘夷・倒幕論に偏りそうな人物たちとの方が、縁が近かったと思います。

さて中川宮と聞いて、幕末に親しみのある方は「もしや」と思われるかもしれませんが、井伊直弼による「安政の大獄」で、父将作の仕える中川宮は、永蟄居(隠居)を命じられてしまい、父将作自身も、投獄されてしまいます。

安政五年(1858年)に捕らえられ、翌年の1859年には釈放された楢崎将作ですが、3年後の1862年には病死してしまいます。

楢崎龍の苦難

父将作が亡くなったとき、お龍は20~21歳。

安政の大獄で捕らえられ、釈放されて亡くなるまで4年ありますから、その時点でだいぶ困窮していたのかもしれませんが、書籍などを見ると、父将作の死によって家計は非常に困窮し、いよいよ楢崎家に危機が訪れたとされています。

父将作が亡くなったところに、母が騙されてしまい、お龍の妹たちは島原の舞妓と、大坂の女郎にそれぞれ売られてしまいます。

そんなとき、お龍は妹たちを取り返しそうと、懐に刃物を抱えて、妹たちが連れていかれた先まで行って、啖呵を切って妹たちを取り返したそうです。

気の強い女性、というか、蝶よ花よと育てられた女性では、なかなかできることではないと思います。もともとの性格なのか、勤皇家の出入りする家に育ったがゆえなのか、わかりませんが、お龍の人柄をあらわすエピソードで有名な話です。

龍馬とお龍の出会い

父の死後、お龍は母や妹と別で働き、京都・七条新地の旅館「扇岩」で働いていたそうです。

お龍の母・貞は、方広寺大仏殿近くにあった土佐藩出身の尊攘派志士たちの隠れ家で、賄いをするようになったといいます。

どうやら坂本龍馬とお龍の出会いは、そのあたりのようで、龍馬が貞に「お龍を嫁に」と申し入れて、母の貞も了承して、結婚に至ったといわれています。

龍馬の記述によると、「一家は困窮し、龍馬は「日々、食うや食わず、実に哀れな暮しであった」」ということですから、裕福な暮らしから一転、毎日先の見えない生活を送っていたことがわかります。

そんなところに龍馬と結婚するという話が来たことは、楢崎家にとってはとても幸運なことだったのではないでしょうか。

龍馬の妻・お龍への評価

有名な話ではありますが、龍馬が姉の乙女に書いた手紙にお龍のことを書いていて「まことにおもしろき女」としています。ほかにも、薩摩へ新婚旅行に行っているときなどは「突飛な女だ」など。

お龍は、およそ当時の一般的な女性のタイプとは違っていたようです。

今回はここまで。