陰陽師・安倍晴明が復刻した刀とは?宝剣と陰陽師

陰陽師・安倍晴明が復刻した刀とは?宝剣と陰陽師

現代では霊能力者のようなイメージの強い「陰陽師」。
安倍晴明の時代は、政治を支える国家公務員でした。

むしろ、そもそも陰陽師は国家公務のために生まれた職業なのです。

そんな陰陽師・安倍晴明が当時、ある刀を復活させたというエピソードがあるのです。
今回はそんなお話をご紹介します。

陰陽師が国家公務員として行っていた職務とは?

安倍晴明ら陰陽師は、朝廷ではたらく陰陽師でした。

陰陽師は「陰陽寮」という場所に配属されていました。
陰陽寮には陰陽術の他にも、天文、風水、漏刻(時計の管理)などの仕事がありました。

どんなことをしていたのかというと、
・天体の様子を読むこと
・地形を見ること

などです。

天体や気象の様子に異変があると、当時は地上の政治に影響があると考えられていました。
そのため、日や星月など、天体の動きはとても重要だったのです。

また、地形を見るのにも陰陽師は必要でした。
たとえば都を移す「遷都」の際、土地の下見にはほかの役人に混じって陰陽師が同行しています。

当時は中国の都を模した形が理想とされていました。
北側に山があり、南北を縦に川が走っている、などの条件を満たさないと、都をおく土地には選ばれませんでした。

陰陽師はそうした土地を読む(風水)担当でした。

朝廷の政務以外に、貴族たちからの個人的な依頼を受けることもありました。
悪い方角を避ける「方違え」などが代表的かと思いますが、そうしたエピソードの方が今日まで一般的に伝説として浸透しているような印象を受けます。

陰陽師・安倍晴明が復活させた刀とは?

陰陽師といえば誰もが知っているのが安倍晴明。

そんな安倍晴明が、当時ある刀を復活させた、というエピソードがあります。

西暦960年頃~寛治8年(1094年)までに、たびたび内裏が炎上するという事件が起きました。
このとき、天皇家に代々伝わる刀剣が消失してしまいます。
刀剣の名前は「護身剣(ごしんのつるぎ)/または日月護身剣(にちげつごしんのけん)」と「将軍剣/または破敵剣」。

護身剣、将軍剣が二振の大刀で、ほかにも節刀数口あるという「大刀契」という名の揃いの刀剣でした。
ちなみに「契」というのは「兵を発するための符契(符節/割り符)」のことで、それもついていたのだそうです。

「 御門を病や災いからお守りする」という霊剣で、天皇の宝剣の中では三種の神器に次ぐ重器です。

御門(=天皇)を災いや病からお守りするという霊剣でしたから、これは作り直さねばなるまいということになったのですが、ここには大変な問題がありました。

護身剣は三種の神器に次ぐ宝剣。宝物倉に保管されていたので、そのすがたを誰も見たことがなく、どんな形なのかさえ知らなかったのです。

そこで、当時陰陽寮の天文生(天文の見習い官僚)である賀茂保憲・安倍晴明が修復を任されることになります。
御門直々の仰せ付けによるものでした。

なぜ賀茂保憲・安倍晴明に白羽の矢がたったのか。

安倍晴明らの考えは、安倍家に代々伝わってきた文書「大刀契事(だいとけいのこと)」によると、

「唐国の道教の教えにもあるように、天の有様を刻みたる剣を持つことで災いから守る。天の文様、すなわち日輪と月、星星、天界の神々をかたどったものである」

つまり、この刀剣復活には天文の知識が必要であったことがわかります。
安倍晴明らは刀剣の専門家ではないですが、天文や災いを除ける知識が必要だった「大刀契」の復活に関しては、必要な2人だったのです。

護身剣には「南斗 北斗 日形 月形 朱雀 青龍 玄武 白虎」を刻み、
将軍剣には「三公 五帝 南斗 北極 北斗 白虎 青龍」を刻み、

見事、「大刀契」の二振を復活させたそうです。

せっかく復活させた「大刀契」の二振ですが、南北朝時代にはしてしまい、以降二度と作られることはありませんでした。